暮らしの中の旅日記 Ⅰ
2012.06.01
写真/文 田原あゆみ
工芸の五月
企画展が終了した後、3日間で一気に返品と片付けを勢いで終わらせて、「クラフトフェアまつもと」へ行ってきました。
信州は沖縄とは全く違う自然の景色が広がっている。
尾根には雪が残ったままの遠くにそびえ立つ山脈、近くの山、山山山。
ぐるりと囲まれたところに、こじんまりとした街、松本がある。
松本は散策するのにちょうどいいサイズの街だ。
市内には水路があって、清涼な水が流れ続けている。
どこで水辺を覗いても、五月の光に水面は輝き、透き通った水が柔らかそうに見えるのは、水の粒子が細やかだからか。
手を伸ばして触ってみたくなるような水、その水と松本の空気はとても似ている。
そしてこの小さな街に、それはもうたくさんの人人人。
クラフトフェアを目指して、作り手も、買い手も、使い手も、料理人も食いしん坊さんたちも、いろいろいろいろ。
意外にも強い陽射しの下を、眩しそうに目を細めた人が、列をなしてあがたの森へと大行進。
あがたの森の前、赤信号で並ぶ人、作り手の店先に並ぶ人、あがたの森は活気で溢れていた。
溢れてはいるが、思い出すととてもさわやかで、静かなのが不思議だ。
五月晴れの高い空と、信州の山々が松本の街全体を包んで、喧噪を吸い取ってくれたのか。
それとも私の頭の中自体が、あの空気で洗われたのかもしれない。
空気は淡く、そよぐ風は強い陽射しを和らげて、「工芸の五月」は真っ盛りだったのです。
何かのイベントを目指して旅をしたのは、もしかしたら今回が初めてかもしれない。
一度タイの象祭りをみたい!とスリン目指して出かけたことがあるが、混雑への懸念とタイトなスケジュールから行くのをあきらめてしまった。
大好きな象がたくさんいるのに、である。
しかもチケットまでふいにして、私は静かな田舎への旅を選んだのだった。
私の今までの旅は、“混雑を避ける”という私の常識をもとに成り立っていたのだった。
混雑の中で出会うたくさんの象よりは、田舎にひっそりといる一頭の象でいいや、と私の観念は私の行動全般を誘導していたのだ。
今回の旅で私は、その固定された私の観念からも自由になった。
パターンが変わった、というささやかな喜び。
以前「空間の移動、すなわち“旅”自体が人の脳に一番の刺激を与える」ということを聞いたことがある。
脳は安定を好むので、長距離の移動によって出来た環境の変化を検出すると、今までのデーターを一新し、環境にあった身体へと誘う発令を出すのに集中する。
そこに一種の余白が出来るのかもしれない。
そうして私たちは、旅に出てリセットをしたり、新たな展望を見たいと思ったり、実際にそれを得たりするのだ。
もちろん期待した結果は出ることも出ないこともあるが、殆どの人が旅に憧れを持っているのはその所以だろう。
ムーミンに自己投影をして、スナフキンに憧れるのはその原風景なのではないか。
今回私は、「来ませんか?」とある人に言われたことがきっかけで、「そういえばいつか行ってみたいと思っていたな」と思い、
「何をしにいこうかな?」と考えて、「行ってみたかったクラフトフェアに行ってみて、行きたかった白骨温泉でリセットしよう」という理由をこしらえた。
ただ行ってみたかったという理由なので、いいもの見つけるぞ~とか、いい作家さんと出会うぞ~という気張りは全く無く、仕事始まって以来の過密スケジュールの嵐をひとまずかき分けて、着いた松本。
このスカッと出来た空白に、私は気持ちよく歩を進めたのでした。
5月の信州は緑が萌えている。
あがたの森の木は、とてもユニークな枝振りでしばらく見入ってしまう。
こんなところでどうして曲がるんだろうか・・・・と。
青々と伸びやかに枝葉を伸ばし、訪れる人々に陰を提供してくれている。
旧制松本高等学校の遺構をそのまま図書館に。
江戸時代、各地から集められた匠たちがたくさん居住する城下町として栄えた松本。
昭和初期には、柳宗悦の唱えた「民芸運動」に共感した人たちによって、木工、染織を始め、活発な工芸品製作がこの地でおこなわれ、こうした工芸と地域との長い関わりが礎となって「クラフトフェアまつもと」が生まれたのだそうだ。
この図書館があることがとてもうらやましい。
通いたくなるたたずまい。
旅する本屋
「暮らしの手帖」の編集長、松浦弥太郎さんが代表のCOW BOOKS
旅する本屋があがたの森の入り口に出店していました。
セレクトされた本のタイトルや装丁を眺めていると、小さな旅がいっぱい詰まっているようだ。
人はなぜものを作るのだろうか?
必要な生活道具だけではなく、暮らしの中での心のよりどころのようなものも、私たちは求めているのだ。
日常の暮らしの中で起こる小さな旅、そこへいざなう象徴を。
木彫りの羊を見て、まるで生きているようだと感じた。
面白いことに、時に実写生のあまりに強いものには入り込む余地がなく、作り手の技術だけが誇らしげに見えてしまうことがある。
が、抽象性というのは、見る人が入り込む余地が余すところにあり、間口が広く、答えも出口も無いもので、深遠さが感じられる。
羊さんもうさぎさんたちも、木の彫刻なのだと分かってはいても、生きているぬくもりが伝わってくる。
この小さな木彫りの動物たちの後ろに見える景色は、きっと人によっていろいろで、この小さなサイズを超えて広がるだろう。
光に魅せられた人、水を捉えたいと思う人がガラスを形成するのだろうか?
やさしい光が、形になった。
冷たいはずの金属も、スプーンやフォークという形に収まるとぬくもりを感じる。
この人が作った形のせいなのか。
家という小宇宙。
空想の中から溢れた生活。
この人は一体どんな家に住んでいるのだろう?
どんな暮らしをしているのだろうか。
どんな人の生活の中にこのうつわたちは旅立ってゆくのだろうか?
うつわたちに、どんな時間が染み込んでゆくのだろうか。
光の下でまっさらなうつわたちが、静かに待っている。
最初は名前が無いようなぺたんとした肌も、使い込まれてゆくうちにその暮らしの表情が刻まれてゆく。
大切にされたものには、ある種の深い輝きが宿る。
人の数だけ暮らしがある。
毎日という旅の中で、様々な道具たちが一緒に暮らしている。
よく西洋を旅する友人に、西洋文化圏の暮らしと、日本人の暮らしと、どちらにゆたかさを感じるか?
という質問をした。
「向こうの人は余暇や、旅や、家族で過ごす時間を充分にとるようにしている。それはとてもゆたかだなあ、と思う。けれど、日本人はせわしいといわれる日常の中で、暮らしの道具を大切にしたり、ちょっとした季節の変化に心を留めたりする、それもとてもゆたかだなあ、と感じる。それぞれのゆたかさがあるんだね」
と、友人が答えた言葉が、じわーっと心を満たした。
そんなことを思いながら、クラフトフェアをぶらぶらと歩いた。
原毛のうつくしさ。
そのうつくしさを知れば知るほど、感じれば感じるほど、作り手は謙虚になるのかもしれない。
27日の夕方に松本を出て、白骨温泉へ出発。
途中で出会った、神々しい木。
写真に納まりきれないほどの輝き。
こんな時に、自分の技術のつたなさに舌打ち。
自然の奥深さには畏怖の念を。
白骨温泉はよかった。
あまりによかったので、写真を撮るのを忘れてしまいました。
白濁したぬるめの温泉は、炭酸を含んでいるので肌に泡が着いてきます。
ゆるゆると、身体を湯船に預けて、なんにも考えないでただただ感覚的に過ごした2日間。
インターネットもつながらず、携帯も圏外になりがちな山の中。
海に囲まれた沖縄から、全く違う山の国へ。
きっと私の脳みそは、かなりの状況の変化に適応すべく大忙しだったに違いない。
なので、帰って来た今も、私は未だに余白の中にいるようだ。
大木に咲いた白藤のようなうつくしい花が、至る所に満開。
空に伸び上がった枝からこぼれた、可憐な花房。
アカシアの花を初めて見た。
あたりには気高くてやさしい香りが漂っていた。
アカシアのハチミツのことが急に宝物の様に思えて来た。
だってこんなに素敵な木の花の蜜なんですから。
ニリンソウの白い花。
上高地にて。
写真は撮れなかったけれど、山道では野生のニホンザルに出会った。
つかの間の出会い。
わっさわっさと山肌を駆け上がっていった彼と一瞬目が合って、その力強さが流れ込んで来た。
そして最終日には、山道の脇の出っ張りにニホンカモシカがこちらを見ながら、草をもぐもぐと食べていた。
圧倒的な存在感。
そしてなんて可憐な目をしているのだろう。
自分が運転している車が、何だかとても暴力的にも感じられた。
私は、一瞬であの可憐な命を奪うことも出来るんだ、と。
けれど彼らから感じる生命力は逞しく、強烈で、それは私に力さえ与えてくれる。
私たちの生活のそばで、ニホンカモシカが生きている。
そんな世界がまだ私たちの世界には残っているのだ。
私たちの生活は、彼らの生活の場にものすごい変化を強いているのだろう。
今度は私たちが変わる時なのだ。
使い捨てから再生のサイクルへ、大量生産の10点から、大事に使う一点へ。
スタイルから、心がこもった内容へ。
私たち人は、自然をいじることが出来る。
壊すことも出来るし、再生し、共生することも出来るだろう。
ものを作る時、やはり私たちは自然に触わる。
その時にどんなものを作るのか、何を込めるのか、逆に何を込めずに形作るのか。
そうして作り手の生活という旅の中から生まれた暮らしの道具たち。
その道具たちもまた旅をして、誰かのもとへと届くだろう。
使い手はまた、暮らしという船の中で道具と一緒に旅をする。
私たち人は、移動してもしなくても、思いを馳せて旅をする。
道具の来た道、作り手の暮らし、今、昨日、明日、過去や未来へと。
松本の路地裏の花。
小さな古いお家の女主人が、きっと手塩にかけて育てた薔薇の花。
私たちが写真を撮っているのを横目に見ながら、にやりと笑って奥へ引っ込んでしまった。
さて今回は、私の実際の移動の旅と、頭の中の旅をとりとめもなく記事にしたためました。
Shoka:は新たな展開へ向けてリセット期間です。
今回の旅の空白が、じわじわと染みて来た頃リニュアルした空間で再会しましょう。
再会するまでは、私の旅の記録と記憶を隔週でお届けします。
短いのも、長いのも。
毎日の生活の中で素敵な旅を。